3.11 運命の日(わたしの覚書)
2009年 農薬散布のせいで自宅を離れ九州で避難生活を始めた。しかし、田舎での生活では、野焼きやペンキ塗りなどで生活できず。2010年10月(農薬散布のない時期)一時的に自宅へ帰宅していた。そして、次の農薬散布(2011年5月)までに、避難先を決めて再び引っ越す予定だった。そんななか、東日本大震災に見舞われてしまった。私のところは、高台だったので被害はほとんどなかったが‥それでも怖い体験だった。
下の記事は、「東日本大震災」にわたしが遭遇した体験を、私の覚書として書いたもの。よろしければ参考にしてください。
|運命の日 2011年3月11日
電車で大きな神社とお寺までお参り。(信仰がないから、観光みたいな感じ)。なんか…楽しかったね。安心しきってたって言うか…。それが地震が起こる1週間ほど前だった。
そして、3月11日午前。近くにある森へ犬と散歩。
そして散歩から帰って…ホームページの作成。
すると…突然。ゴーって言う地響きが…。
「地震だっ!」って分かって、すぐに愛犬を抱いてトイレに入った。ものが落ちない安全なところって言うことで…。トイレに入って床に座ったけど…座っていられないほどの大きな揺れ。
地震には慣れていたけど…今回だけは「終わった…!」って思った。
一年前‥散歩中、「日本って2012年に終わるんだって…」なんて子どもが話していたから…。
地震の揺れが落ち着いて…納戸へ行ってみると、全てがぐちゃぐちゃ。そして、わたしがさっきまでいた部屋のパソコンのディスプレーとキーボードの間にには、壁に飾っていた額が落ちてガラスが散乱。一階へ降りると、テレビやコピー機が床に落ちていた。水屋は、金具で留めていたので無事。下にいた娘は自分のパソコンを守っていたとか…。とにかく無事でよかった。
外へ出ると、近所の人が慌てたのか裸足で出てきて「助けてー。こわいー!」って叫んでいる。空地へ行くと近所の人も集まってきていて…何度となく起きる地震におびえていた。工場が爆発し、黒い煙が見えた。留守番中の近所の小さい子どもは顔が引きつり、一人暮らしの近所のおばあさんは私の腕を痛いほど握っていた。そして円陣を組んで「大丈夫だから」って励ましあった。
それから約一時間後。その空き地で迎えた大きな地震。その場所に止めてあったトラックが宙に浮かんだ。目の前の塀が倒れた。屋根の瓦が落ちた。外は寒くて、今日の夜はどうなるんだろう?家で寝れるのかな〜って考えた。主人は、車で10分ほどで帰れる会社から、3時間もかかって帰ってきた。無事でよかった。地震の後、潮が引いて行くのを見たと…。津波に遭わずに良かった。東京にいる子供とも連絡が取れた。映画の途中で地震にあったとか。帰宅困難者になったという。とにかく家族全員無事だと分かった。その日は、磁場が強かったせいで、心臓の不整脈が8時間ぐらい続いた。苦しかった。
その後。
主人の会社は、津波に遭って後かたずけが大変だったそうだ。同僚に家が津波で流され、社宅に入った人もいた。我が家は、ライフラインは全く異常がなかった。井戸水だったのが良かった。上水道を使っている人たちは、長いこと断水だった。お米や野菜は、いつも大量に注文していたから…買出しにも困らなかった。
次の日。原発1号機が爆発。とにかく福島の人避難してって感じ。自分は逃げる必要ないって思っていた。
数日して‥散歩に外に出た。マンホールが2メートルぐらい盛り上がっていたり、道路にひび割れがあったり、地面が盛り上がっていたり…。買い物に行くとお店の壁や天井が落ちていた。駐車場で売るところもあった。買い物は長蛇の列。思ったよりみんな忍耐強かった。
ガソリン入れるのも長蛇の列。寒い中何時間も並んだ。
電信柱は斜めになり、コンビニの屋根に倒れていたものもあった。塀はくずれ、津波でコンテナがお店の駐車場まで流されていた。海の近くの人は、家に住めなくなった人も多かった。うちは、幸い高台だったから…何もなかったけど…。周りは思った以上にひどかった。そして、あちこちの家の屋根はブルーシートで覆われていた。とにかく、マスクをつけて毎日のように犬の散歩と近所の散策に外へ出ていた。
ところが4月になって体に異変。下痢と食欲不振。そして、歯ぐきからの出血。数日で数キロ体重が減った。この症状は(ビフィズス菌を飲むことで)2週間ほどで治った。なのに‥、4月23日から再び体に異変。、目、喉、気管がヒリヒリし、熱い感じがあった。今までにない感じで「軽いやけど」って感じがした。
たぶん被曝したんだ…。それで、農薬散布の避難予定より早く避難生活へ。今度は関西!
|震災直後
◇震災で商品が少ない中、長蛇の列ができていた。しかし、だれも苦情を言うものもなく落ち着いていた。商品を取りあったりする場面もなかった。
◇断水で困っている人には、井戸水を使っている人が無料で分けていた。FMラジオでどこに行けば水をいただけるか放送していた。
◇親しい郵便やさんがいた。津波警報が出ているときも…いつもと変わらず配達をし続けたって言っていた。放射能で体調悪いから関西方面へ避難することを話したら…。「僕は、行くところがないから…無理だな〜。」って言っていた。逃げたくても逃げれない人もたくさんいた。瓦礫運搬費用を、多くの人の避難に使ってほしかったな〜。
◇屋根瓦が落ちて青いビニールシートをかけたたくさんの家。みんな、「これくらい、どうってことないよ。」って言っていた。それほど、多くの人が酷い災害に見舞われたってこと。
◇近所の人と会うと「地震の時大丈夫だった?」って言うのがあいさつに…。
◇原発で被害を受けた農家や漁業関係者がたくさんいたのに、自殺者もたくさんいたのに…。みんなが集まると「原発はやっぱり必要だよね」って話になっていた。みんな、原発がなくても電力が足りているってことを知らないみたいだった。
◇関西方面へ引っ越してきたばかりの頃…5,6歳の小さな子どもが「地震が怖い」とか「もう日本が終わる」とか道道話しているのを聞いて…こんな遠くの子どもたちにまで震災は大きな影響を与えたんだって思った。
◇どんな時にも「大丈夫だよ。」って言ってくれる主人に「本当に大丈夫?」て訊くと…。主人は、「たとえ危険だとしても…。危険だって言うのと、大丈夫って言うのとどっちがいい?」「大丈夫っていう方だろう」って。…やさしい人なんだな〜って思った。
でも…私は思った。「安全で、大丈夫ってのはないのかな〜」って。
|お勧め動画
■キムチの作り方
放射能被爆対策として‥キムチなどの乳酸菌の入った食品を多く摂ることをお勧めします。なぜなら、放射能などは、腸内の大切な菌のバランスを崩すからです。そこでお勧めが手作りキムチ。とても簡単に作れる方法を下記の動画で紹介します。
キムチ1gに乳酸菌が8億ともいわれるほど。手作りして毎日食べてください。私は、3.11以降ずっとキムチ欠かさず食べていました。
(現在もキムチなどの乳酸器を含む食品を欠かさず食べるようにしています。)
↓超簡単キムチンの作り方
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下にCMが表示されることがありますが、このブログと関係ありません。
- by 白鳥沙羅
- 2012.03.11 Sunday
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- 15:16
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